16.1.13

2013年の初めに考えたいくつかのこと。


子どもの頃から毎年初詣に行く同じ神社に今年も行ってきました。

いま、日本からロンドンに帰る飛行機のなかでこれを書いています。
ここ数年、年末年始は日本で過ごす習慣になっていて、今年も例にもれず、日本でお正月を迎えました。

昨年9月に里帰りしたときには、なんかよそよそしいなぁ、と思った、自分の生まれた国ですが、今回はそういうセンチメンタリズムに襲われることもなく、なんだか健やかに、そしてやっぱりどこに行っても安全地帯はあるなぁと、ちょっとほっとする思いが強かったです。

というのも、3週間近く日本にいながら、自分の行動範囲がかなり限られていたせいが大きい。私がいまの日本に帰って感じる違和感の大半は、お店やサービス機関で見られる奇妙な画一化、フォーマット化にともなうところが大きいからです。具体的に例を挙げるなら、電車のワゴン販売の、「お弁当にサンドイッチ〜」という男女の別なく甲高い声とか、おつりを渡すときに、どういう意図か左手を相手の手の下に添えてみたりとか、服飾関係のお店にありがちな「ゴランクダイサマセー」という宇宙人的な声とか、これはほんの表層的な一部にすぎませんが、そういった意味のない(と私には思える)画一性です。

これって、実は画一化した表層的な部分を嫌っている(というのもあるけど)、というよりも、その裏側にある、フォーマット化されたことは自動的にこなせるけれど、実は自分の頭で考えてないんじゃないか、またはもっと言うなら、自分の頭で考えることを、もはや社会が必要としてないんじゃないか、と思えて、そこに空恐ろしさを覚えるのです。

1980年代、村上春樹さんのデビュー作のなかで、登場人物の「鼠」が金持ちのことを「懐中電灯とものさしがなければ自分のケツも掻けない」と(たしか)形容していたのが頭に浮かびます。マニュアルは暗唱しているかもしれないけれど、自分の言葉でしゃべっていない。自分の頭で考えていない。ただ、一定の流れに沿ったプログラムで、自動的に答えを割り出して音声化していくロボットのように。

と、長々辛気くさいことを書きましたが、そんなわけで、あぁ、日本人は懐中電灯とものさしがなければ、自分のケツも掻けなくなってしまったのだろうか、と、ここ数年は帰国のたびにやや暗澹たる思いを抱えていたわけです。

「安全地帯」と前述しましたが、今回は昔から見知った多摩地区のごく一部と、毎年新年に訪れる軽井沢の友人家族のところに行っただけで、ほとんどその外に出ることがなかった。創業1954年の喫茶店で「イラッシャイマセ、コンニチワー」のマニュアル声を聞くことはないってことなんですよね。行く場所さえ誤らなければ、避けて通れるというか。ものごとの根本的解決には、まったくなっていない、という「最重要課題」を度外視すれば、私にとっては快適に時間を過ごせる術だなーと、いまさら思ったわけです。臭いものにフタ、見て見ぬ振りの「汚い大人」なやり方なのかもしれないけど。でも少なくとも、安全な場所はまだある、というのは、ある種の救いに思えるのです。

そして、この安全地帯では、昔と同じようなコミュニケーションが残っているなぁ、と。それは実に収穫でした。

安全地帯のふるーい喫茶店。

なによりも今回の帰国で意義深かったのは、私が尊敬する表現者の方に、17年ぶりでお会いできたことです。きっちり17年分お年を召していらっしゃったけれど(それは私もそうなんですけど)、以前と同じく、表現者としての美しいスピリットを感じて、「表現者のあり方」について深く考えるきっかけになりました。これについては、私のなかで、まだ混沌としている部分があるので、また改めて書きたいと思います。

ただ、2013年に向けて、自分が表現すべきことを怠惰に陥らずに、ちゃんと「自分にとって正しいかたちで」表現する、その努力を絶対に惜しんではいけない、と強く強く思った年の始まりでした。1年の終わりに、しっかり顔を上げて「2013年もいい年だった、ありがとう」と、思えるように、きっちり悩んで努力していきたいと思います。

最後になりましたが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

※オマケで、日本の雪の写真など、いくつか。

玉川上水の雪景色。


いい笑顔。


久しぶりの東京のドカ雪体験でした。


びしゃびしゃになったけど、楽しかったです。

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